「おらほのNo.1」〜宮城〜「SENDAI光のページェント」 仙台の冬の風物詩の立ち上げメンバーに東北電力社員がいた!

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 杜の都として知られる仙台の冬の風物詩「SENDAI光のページェント」。 今年も美しいイルミネーションで街は光り輝き、幻想的な雰囲気に包まれます。

今年も開幕、テーマは『Look up,Keep SMILE!』

 37回目となる今年は12月9日(金)〜12月25日(日)の17日間、メインストリートである定禅寺通のケヤキ125本に、約47万球のLEDが灯されます。

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定禅寺通りのページェント風景

 今年のテーマは「Look up,Keep SMILE!」
 新型コロナ感染拡大の影響で過去2年間、本来の形で開催できなかったことを踏まえ「空を見上げ、笑顔になってほしい」という願いを込めて開催します。
 また、コロナ前には大盛況だったスターライト・ウインクやスターライトリンク、クリスマスマーケットが3年ぶりに再開します。

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スターライト・ウインク
すべての明かりが約1分間消灯し、一斉に再点灯

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スターライトリンク
アイススケートリンクを設置し、スケート教室も開催

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クリスマスマーケット
市民広場内にヒュッテを設置し、クリスマスマーケットを開催。
暖を取り休憩できるスペースとして、大型休憩テントを設置

 近年では、協賛企業による様々な取り組みがページェントを盛り立てています。

画像提供:SENDAI光のページェント実行委員会(8枚とも)

SENDAI光のページェントを立ち上げに参画し、支え続けた一人の社員

 「SENDAI光のページェント」は1986(昭和61)年、「冬の仙台を明るくしたい」「杜の都を光の都へ」という想いから、市民ボランティアが「杜の都仙台」を象徴する定禅寺通と青葉通のケヤキ並木にイルミネーションを施したのが始まりです。
 この市民ボランティアプロジェクトの立ち上げに参画した東北電力社員がいました。
 当時、会社からの派遣で、仙台青年会議所(仙台JC)のメンバーとして活動していた現 東北緑化環境保全(株)の宮本保彦社長です。

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東北緑化環境保全(株) 宮本 保彦社長

 宮本社長は当時を以下のように振り返ります。

 「私が入社3年目、宮城支店勤務の時でした。当時、欧米先進国ではライトアップが盛んな時世。日本では景観照明が立ち遅れており、国や自治体そして当社としても明かり文化を繁栄させたい、との思いがありました。
 そんな中『定禅寺通のケヤキ並木に電球をつけたら綺麗だろうね〜。』との青年会議所メンバーのアイデア。その発想がそのままページェントの形となるまで、なんと3カ月足らずでした。
 発足メンバーは、仙台JCの関係者を中心にイベント会社などの一般企業や電力会社の社員、仙台市役所や商工会議所の職員、地元活性化推進組織の役員やフリーデザイナーなど、職種も多岐に渡る30名。それぞれの強みを生かし、企画書と完成イメージのパース(イラスト)を携えて、各方面に説明し、協賛を募って回りました。
 当時はCGなどの技術が無い時代なので、定禅寺通に電球が灯ったイメージは手書きのイラスト。でも、この1枚のイラストが提案活動の起爆剤となりました。」

イルミネーションが点灯するまで 〜様々な困難を乗り越えて〜

 1986年(昭和61年)12月12日(金)17時に定禅寺通りと青葉通りの114本のけやきに30万個の電球が一斉に点灯。「SENDAI光のページェント」が産声を上げた瞬間です。
 ボランティア30名の3カ月にわたる労苦は計り知れませんが、この点灯のタイミングこそがボランティアメンバーの思いが報われた瞬間だったと、宮本社長は振り返ります。

イルミネーションが点灯するまで 〜様々な困難を乗り越えて〜 イメージ1
イルミネーションが点灯するまで 〜様々な困難を乗り越えて〜 イメージ2

1986年12月13日 河北新報朝刊(河北新報社提供:転用禁止)

 ページェント開催にこぎつけるまで、幾多の困難がありました。

エピソード1:資金集め
  • 電気を使うイベントだから、東北電力が経費を負担してくれるといいのに・・・というメンバーの声に対し、公益事業者なので電気代を無料にすることはできないし、協賛金支出も様々な制約がある。と思っていた宮本社長。しかし、当時の当社社長にもメンバーの熱意が伝わり、会社からも協賛金を含め多大なる後押しをいただきたました。
エピソード2:電球設備の仕様は?
  • 当時、国内において、広範囲にわたり屋外に電球を装着点灯した事例は少なく、漏電や公衆感電に関する知見も乏しいものでした。東北通産局(現 東北経産局)からの認可を得るため何度も足を運び、24vに変圧し漏電ブレーカーをケヤキの木1本ずつに設置することで、許可を得ました。
  • クリスマスだから点滅させたい、カラフルな色にしたいという声もあったが、信号機や交通車両への影響を考慮し、白熱電球に統一。結果、ケヤキの木を美しく見せることができ、五山の送り火にも重なるような「聖なるイメージ」が定着。そのため、昭和天皇が体調を崩され全国的にイベントが自粛されていた昭和63年でも、光のページェントは中止することなく、粛々と実施することができたと言われています。

 宮本社長はニューヨーク事務所に転勤するまでの約7年間、ページェント実行委員として、この市民イベントを支えました。

 また、ニューヨーク事務所勤務時代には、NY日本青年会議所の初代理事長としても積極的にイベントに関わりました。現地で培った人脈を生かし、ロックフェラー氏に仙台のページェント点灯式にご招待したいと手紙を送ったり、募金用の5ガロン瓶(アクアクララのような強化プラスチック瓶:当時の日本には無かった)50本を貰い受け、JALの知人に頼んで無償で空輸してもらうなど、ニューヨークからもページェントを支え続けました。

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当時の5ガロン瓶と変わらない現在のページェント募金ボトル

ページェントのその先に

 ページェントの成功を機に仙台の街における景観照明の機運が高まりました。
 定禅寺通りの彫刻や青葉城隅櫓のライトアップは、照明デザイナー石井幹子氏の監修のもと、仮設で設置し試行実験を重ねました。そして常設となった設備を東北電力が自治体に寄贈するなど、地元の電力会社として街の景観照明の普及にも寄与しました。

 「ページェントの実現は、とてつもなく高いハードルでした。
 この無理難題なプロジェクトをメンバーのみんなで力を合わせて実現できたことは、今振り返ってみても忘れ難い体験です。
 会社を超えて積極的に地域と関わること、損得抜きに地域に貢献することで、社外のネットワークが広がったことは会社人生だけでは得られない無形の財産となりました。そしてそのネットワークは仕事にも仕事以外にも好影響を与えてくれたと思っています。」

 宮本社長は当時を振り返りながら、今年もページェントを楽しむことができて嬉しいと、笑顔で話してくれました。

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光のページェント公式HP
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